ご案内

世は貴族にかわって武士が支配する時代になり、その政権も平氏から源氏へ、さらに、源氏の将軍も名ばかりで、実権は北条氏の世襲に移るというめまぐるしい動向の中で、庶民階層にも「人間復権」の目ざめがでできたといえるのでしょうか。
そのあらわれが、人びとの宗教的自覚です。 鎌倉仏教は、法然や親鴛、道元や日蓮といったスーパースターたちによって、ひろく庶民のあいだにひろまりました。
仏教が国家中心から、国民中心へと、鎌倉仏教の担手によって塗り変えられていったのです。 救われる人聞を中心にして説かれた仏教、それが、鎌倉仏教のもっとも大きな特徴ではなかったかと思います。

たとえば、奈良の元興寺極楽坊という日本きっての古利が、近年、歴史学界で注目をあびたことがありました。 このお寺が解体修理されたとき、お堂におびただしく打ちつけられていた納骨五輪塔が出てきたからです。
これは、説いた人の側から眺めた日本仏教史を、逆に、迎えようとしていた民衆の側から眺め直す貴重な史料です。 このお寺に、智光という奈良時代の僧が描いたという「浄土受茶羅」が伝えられていました。
浄土の世界を絵画で表したものです。 その受茶羅堂へ、名もない人々は、霊奈羅とは、古代インドのサンスクリット語で「本質を図示したもの」という意味をもって「マンダラ」を、漢字で音写したものです。
仏教の本質を図示したものですから、仏教の正しい覚りを完成させた境地や、仏教で説かれる宇宙の理想世界が、体系的に表現されています。 その中で、阿弥陀如来を中心とした浄土の覚りの世界を図示した「浄土墨奈羅」や、大日如来が説く「大日経」をもとに描かれた「胎蔵界霊奈羅」と、『金剛頂経』によって描かれた「金剛界霊奈羅」の両界霊奈羅などが有名です。
小さな板片の五輪塔をきざみ、を納めて、お堂に打ちつけていったのでしたおそらく生前、受茶羅堂の浄土にあこがれ、法然や親鴛といった組織だった浄土信仰を説く指導者もないまま、自由に信仰を深めていった亡き人をしのぶでしょう。 お堂に結縁させた指導者はいなくても、そうした宗教的自覚が、厳密にいうと仏教的な目ざめが、名もない庶民のあいだに広がりつつあったという事実をぬきにして、中世以降の新仏教を語るわけにはいきません。
世が末法を迎えたときから爆発的な人気で迎えられた浄土教信仰は、ややもすれば現実逃避的な傾向を見せました。 たとえば、極楽浄土があるという西の海をさして舟をこぎだしていく渡海往生という、自殺行為にまで及びました。
こうした浄土信仰にひとつの組織だてをしたのが、浄土宗の開祖、法然です。
法然は称名念仏に阿弥陀如来の救いのすべてがこめられていると説きました。 阿弥陀如来の救いを信仰し、その名を称える念仏)だけで浄土往生ができるというものです。

それは、武士も農民も、現実の生活でそのままに救われるという道でした。 それをさらに純粋に受けついだのが親鴛(浄土真宗の開祖)です。
親鴛によると、みずからとなえる念仏ではなく、私が念仏をとなえることも、それは阿弥陀如来のはたらきによるものであり、無条件で阿弥陀如来の誓いを、信じたとき、そのまま浄土往生が約束され救われるのだと、絶対他力の立場を明らかにしました。 その社会的実践も、朝廷の念仏停止令によって流罪にされた越後から関東に移り、おおやけに妻帯し、下級武士や農民と生活を共にしながら、布教活動を続けました。
法然も親鴛も、ともに比叡山で修行した学僧でした。 山で学びながら山を降りることによって、その宗教的確信を明らかにしました比叡山といえば、日蓮(日蓮宗、日蓮系教団の開祖)もそうでした。
法然や親鴛が、叡山教学から念仏による浄土信仰を選んだのに対して、日蓮は『法華経』に対する絶対帰依を説きました。 釈尊の説法(経典)の中で、『法華経』こそ、末法の世の人々を救う経典であると、日蓮は説きました。
「法道元と日蓮華正法」です。 法然や親驚も、弥陀一仏という信仰における宗教的純粋性で知られますが、日蓮もそうでした。
また、日蓮は、国を救わねばならないという思いを強い心を持っていました。 「国家諌暁」といって、国王以下、国民すべてが「法華正法」に帰さなければ、困難はまぬがれないと『立正安国論』を著して主張し、鎌倉幕府から再度の弾圧を受けています。
念仏と法華ともうひとつ忘れられないのが「禅」です。 栄西(臨済宗の開祖)と道元(曹洞宗の開祖)がそれでした。

栄西の禅は、天台宗復興のために、みずから二度、中国・宗に渡って禅の道を学びました。 帰国して、禅こそ仏教の究極の教えであると説き、九州でいくつもの禅寺を開創しますが、天台宗再建の思いとは裏腹に、比叡山から弾圧を受けることになりますその禅の教えを、さらに独自なものに展開したのが、道元です。
道元も栄西より30数年おくれて中国・宗に渡って、禅を学びます。 そして、修行(禅)は覚りを目的として行うものではなく、覚りと修行は同一のものであると説きます。
ここが臨済禅と大きく異なる点です。 そのため、ただひたすら座禅する道(只管打座)を道元は選びました。
栄西の臨済禅も、道元の曹洞禅も、質実剛健を旨とする武家社会に迎えられるところとなります。 いずれにしても、中世の新仏教は、すぐれた指導者の輩出と、この時代に生きる人々の宗教的自覚によって、わが国に新しい仏教を位置づけました。
この仏教の大衆化をさらに発展させたのが、室町期でした。 禅は、足利幕府の保護を受けて武士階級に広がり、念仏、とりわけ浄土真宗は、まったく新たな展開をみせます。
信仰を中心にした市民社会の形成ですこの時期、本願寺の蓮如という人物を忘れることはできません。 蓮如は、親驚の教仏教の歩み一担えをさらに平易に説きます。

たとえば、「八万の経典」に通じた者も、阿弥陀如来に対して信心のない者は愚者にひとしい。 これにひきかえて、文字をも知らぬ女性や子供でも、阿弥陀如来の救い(本願)を信じる者は、浄土往生を果たすことができるというのです。
人々が民家などに集まって、仏教の法話を共に聞き、同じ信仰に生きる人々が、共に仏法を語りあうという集会が、近畿や北陸を中心に、ひんぱんに行われます。 今でいえばオルグ活動でしょうか。
これが、やがて一向一撲のエネルギーになり、のちには加賀の国(石川県)本願寺坊主と信者の合議による一種の共和国の誕生をみるに至り、この国は百年続きました。 これは、大衆組織というものの強さ日本史上に刻んだ最初の出来事ではなかったでしょうか。
その集団の本質は、あくまでも信仰の強さにありました。 阿弥陀如来の本願(一切の人々を救わずにはおれないという願い)によって浄土往生を約束された身には、この世において何ものをもおそれることはないというのでした。
こうした宗教による集団自治能力をおそれたのが、織田信長や豊臣秀吉、そして江戸幕府をひらいた徳川家康でした。 天下統一をめざす信長は、当時、大坂にあった石山本願寺(現大阪城あたり)の明け渡しをせまりますが、これに応じない本願寺に対し、武力でせまりました。
そこで全国の本願寺門徒が抗戦し、十一年の長きにわたって織田軍の攻撃を封じ、 本願寺と和睦を結んだ信長は、石山合戦が終結して2年後に、明智光秀に殺害されます。

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